西津まつり

祭りの起源については、江戸時代中期(1750年頃)ではないかとされている。
 西津地区は、小浜城下の北に接し、農村部のほかに武家屋敷地の一部、街道筋には町場、海辺には漁師町が立地し、西津村あるいは西津郷と呼ばれ、小浜祇園祭礼の影響を受けて、江戸時代より西津の釣姫神社、玉津島神社が6月15日に祭礼 宗像神社(七年祭り)が3月に、都市型の祭礼として神輿の巡幸に随い(したがい)それを賑わす長大な練物(ねりもの)行列がおこなわれていた。
それに日吉神社の祭礼が加わり西津祭りとして5月14日、15日に行っており、七年祭りと共に5月3日、4日の連休に祭礼日の変更を行い、今日におよんでいる。
 現在、日吉神社、釣姫神社、玉津島神社の氏子及び関係区で西津祭り(隔年で催物)をおこなわれている。

 西津地区の大太鼓は町名や神社の名を記した「出し」が先頭を行き、棒振り、大太鼓は神輿を警護する位置付けとなっている。
西津祭りは、「棒振り」の先引きによって神輿が宮出"みやで"され、大太鼓が付き従うという古い様式を今に伝えており、御霊が乗り移られた神輿の宮出、宮入が重要な儀式である。
「棒振り」は棒術がもとであり、氏子や御霊の警護を勤める役として、悪を払いながら神輿を先導する。
 神輿は、この棒振りが数回出でましを促すことにより、大太鼓の出迎えを伴って"宮出"される。
 大太鼓の基本リズムは"ドン・ドン・ド・ド・ドン"とほぼ4拍子に近く、そのバリエーションも多岐にわたるが、このリズムは"悪を払いのける"ものであるとされている。
 宮出された神輿は、大太鼓を従えて地区内を巡幸し、商売繁盛を願う家庭や子供が生まれた家庭など、希望する家の入口で大太鼓を打ち込ませることで家内安全を約束されるといわれている。
巡幸中、随行する者は「ホオ〜、リョ〜ウ、リョオ、リョオ、リョオ」と声をかける。
 神輿の宮入は祭り最大のクライマックスであり、大太鼓の出迎えの大音響のなかを棒振りが脱兎のごとく宮に走りこみ、神輿を宮内にご案内する。
 宮入りされた御霊は、何度も繰り返し、上下にゆすられることによって豊漁、豊穣、家内安全を約束され、誰も気付かないうちに帰還されるといわれている。
 なお、釣姫神社、日吉神社、玉津島神社において神輿の宮出し、宮入りは祭りを凝縮したものであり、とくに日吉神社の参道は長く、圧巻である。
 また、板屋町区(釣姫神社)の大太鼓と日吉神社氏子の大太鼓との競り合いは氏子境にある宗像神社前で行われ、"けんか太鼓"と呼ばれるほど迫力があり、観衆を引けつけている。


七年祭り(巳年、亥年 5月3日〜4日)
 西津地区、宗像神社の例祭。
 正式には「宗像神社式年七年大祭」といい、約300年の伝統をもつ
 小松原区、新小松原区と北長町(海側)が氏子である。
 巳"み"年と亥"い"年に斉行され、神輿、子供神輿、七福神の宝船、太刀(小浜では唯一の出し物)、棒振りに先導された大太鼓、神楽など豪華・多彩な出し物が出て、初夏の祭りとしては最もスケールが大きなもので"宮出しや宮入りの迫力"は小浜一番であるという自負が氏子にはある。
宗像神社の氏子は川西区、川東区、新小松原区(各町)、北長町区(海側)で各区及び各町(新小松原区)単位で川西区が大太鼓・棒振り・神輿(大人)、川東区が琵琶、新小松原区(大太鼓・棒振り、神輿、太刀、神楽)、北長町区(海側)が子供神輿をおこなっている。
 小松原区、新小松原区は各通り毎に町の名がついており(祇園祭りの下竹原区も同様)、出し物は町単位の集合体で行われる。
 祭りは御神体が各氏子町内を巡幸し、合わせて宮司が御祈祷する神事が主体である。
 出し物は祭りの余興にしか過ぎないということで「余興"よきょう"」と呼ばれているが、余興であっても稽古期間は大変長くおよそ2ヶ月に及ぶ。
 お城祭り、西津祭り、放生会等の出し物が最初から戸別に打ち込みしてまわるのに対し、七年祭りでは全ての出し物が神輿の渡御・還御にお供して行列を組んで巡行するという、江戸時代の小浜祇園祭りの様式を今に伝えており、棒振りに先導された大太鼓や太刀が道先の露払いの役割を果たす。
 神輿は宗像神社を宮出しされた後、小松原区、新小松原区の各御旅所"おたびしょ"に宮入され、再び宗像神社に宮入されるという形式をとるが、宮入の際、余興どおしが競り合うように競演する様は圧巻で、明治頃までは「けんかまつり」と呼ばれていたほどに迫力がある。
 漁師町の産土神らしく、社殿左手には、久内町から奉納された千石船の船霊"ふなだま"が展示されており、船霊は船を象った絵馬で、その内部に御札が奉納されているが、非常に精巧な造りとなっている。



西津まつり、西津七年まつりの神社の紹介

玉津島神社
 元々、三味線堀に建てられていたが、久安5年(1149年)五條三位俊成卿が神社を訪れた時、神のお告げをうけ、建長2年(1250年)現在の地、西津地区の湊に遷宮されたとされている。祭神は(衣通姫)そとおりひめ。

日吉神社
 山王宮と呼ばれ、天応元年(781年)、天ヶ城山上に建設された。祭神は大山昨命。現在の神社は天徳2年(958年)、神社が国富地区・奈胡に遷宮された後、北塩屋に新たに建てられたものである。

釣姫神社
 創建年代も場所も不明であるが、大日靈貴尊"おおひるめのむちのみこと"と薬師如来が合祀され、薬師の森と呼ばれていた。寛永年間(1624〜1644年)、酒井忠勝公が現在の松ヶ崎に神社を再建し、二条院讃岐姫を祭神として釣姫神社と改称した。この釣姫神社は内外海地区・田烏の釣姫明神から移転されたものらしく、また、薬師の森と呼ばれていた時代、二条院讃岐姫愛用の面が祀られていたという伝説がある。僧・行基作といわれる薬師如来は明治になって羽賀寺に移管された。
 
日吉神社と釣姫神社の再建について
 酒井公は、城の鬼門の方角にある玉津島神社を中心に、男女の健康を祈願して再建されたものではないか、と考えられている。

宗像神社
 祭神は宗像三女神、田心"たごり"姫、湍津"たぎつ"姫、市杵島"いちきしま"姫と、七福神唯一の女神、弁財天でともに海と航海を司る。
 小松原区、新小松原区は雲浜地区の小浜城付近にあったが、慶長6年(1601年)京極高次公が小浜城築城の際、下竹原区同様、西津地区へ移転させられ、その時、宗像神社も現在の場所に移建されたものである。


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